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「宗谷」(そうや)は、大日本帝国海軍の保有した防護巡洋艦である。艦名は宗谷海峡に因む〔明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C06091630000 で閲覧可能。〕。日本海軍での公式類別は二等巡洋艦。元はロシア帝国の 1 等防護巡洋艦「ヴァリャーグ」で、日露戦争の際に日本軍によって捕獲された。 == 概要 == 「ヴァリャーグ」は、アメリカ合衆国・ペンシルベニア州・フィラデルフィア市のウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社に発注されたロシア帝国海軍向けの 1 等防護巡洋艦であった。1904年初の時点で朝鮮半島に駐留しており、圧倒的不利な状況で仁川沖海戦を戦ったのち、2月9日〔当時のロシアで使用していたユリウス暦では1月27日。〕、乗員は艦を敵の手に渡すのを拒み、艦を湾内で自沈させた。 「ヴァリャーグ」はその後、終戦まで大破した状態で仁川湾内に放棄されていた。1905年8月8日に日本はこれを浮揚した〔『官報』第6634号、明治38年8月10日。〕。同年8月22日に「宗谷」と命名された。なお、天皇に奏聞した他の候補艦名に「博多」、「長谷」および「不破」があった〔。同年8月27日に二等巡洋艦に類別〔明治38年8月27日付 達第104号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070053200 で閲覧可能。〕、同年秋に佐世保港に回航され11月から横須賀工廠で修復工事を開始、1907年7月9日に整備を完了し、11月に就役した。 その後、「宗谷」は専ら練習艦として使用された。日本海軍では珍しいアメリカ式の艦であったこと、それに同型艦がなかったことが運用上の支障となったためであった。1909年3月14日から8月7日にかけては少尉候補生の遠洋航海訓練のため、ハワイ島と北アメリカまで遠征した。このときには、同じく元ロシア艦の一等巡洋艦「阿蘇」と練習艦隊を編成していた。同様の訓練航海は、1913年まで毎年繰り返された。 太平洋戦争時の日本海軍には、「宗谷」での遠洋航海訓練を経験した多数の指揮官がいた。井上成美、草鹿任一、小沢治三郎、山本五十六、古賀峯一がその代表である。 第一次世界大戦が始まると、ともに連合国の一員となったロシアを支援するため、日本は日露戦争の際に接収したいくつかの艦船をロシアへ売却もしくは譲渡することにした〔当時、ロシアは北方方面の防備のために早急に艦船を整備する必要に迫られていた。そのため、ロシア側から日本に対し、日露戦争時に接収した旧ロシア艦船を返還するよう要請があった。ロシアでは、買い戻した艦船 3 隻と極東に駐留していた艦船の一部を北方へ回航し、北氷洋小艦隊を編成した(「北氷洋」とは「北極海」のこと)。小艦隊はいずれも旧式艦ばかりで編成された間に合わせの戦力であったが、「ヴァリャーグ」はその中では比較的新しく有力な艦船に数えられた。〕。宗谷もそうした艦船のひとつに選ばれ、1916年4月4日〔当時のロシアで使用していたユリウス暦では3月21日。〕にはロシアに買い戻されて日本海軍を除籍された。翌4月5日〔当時のロシアで使用していたユリウス暦では3月22日。〕には、ロシア極東のウラジオストクでロシア帝国海軍へ再編入され、艦名も元の「ヴァリャーグ」へ戻された。「ヴァリャーグ」は6月18日には北氷洋小艦隊司令官旗を掲げてロマーノフ=ナ=ムールマネへ向けてウラジオストクを出立した。同年11月にはコラ半島へ到着した。1917年3月4日に修理のためイギリスへ渡ったが、その後政権を取ったソヴィエト政府は修理代の支払いを拒絶したため、二度とロシアへ戻ることはないまま失われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宗谷 (防護巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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